性愛については、赤裸々に書き残す人は少なく、隠語で書かれていることが多いといいます。そりゃそうですよね。でも、いくつかの本には、江戸・明治の人々が性愛をどのように楽しんでいたかが書かれています。私が読んだのはほんの数冊ですが、その中から紹介します。ここでは、ビジネスとしての性愛や同性愛ではなく、日常の男女間の性愛を対象にします。人間に欠かせない楽しみですもんね。
ところで、今回は、英文を作れませんでした。私の英語力ではとても対応できない内容なので、英文作成に協力していただけるようでしたら、ぜひ、お声かけ下さい。
(This article “Fun of the eros(性愛)” is written only in Japanese, because it is too difficult for me to write in English due to lack of vocabulary about eros. If you kindly help me, please let me know.)
古代に書かれた出雲国の風土記には、忌部の温泉に老若男女が集まって市を作り「燕楽(ウタゲ)」をしたことが書かれています。また、常陸国の風土記には、筑波山でカガイがあり、春と秋に、飲食物を携えて山に登り、自由に情交を結んだことが書かれています(「宴と日本人」、伊藤幹治、1984)。男女が楽しむのは、自然の成り行きですね。
江戸・明治の性愛の形
次に、「売笑三千年史」(中山太郎_1956)から、どんな形で性愛を楽しんでいたかを紹介します。この本は、神話の時代から明治時代までの売笑の歴史を書いた一級品の本だと思います。「売笑」は、「報酬を得るために多数の異性に対し、継続的に許す」ということだそうです。売笑の説明に入る前に、一般の人々の性愛活動について書かれています(第一章、第二節「婚姻の種々相と売笑の発生的関係」)。
「江戸・明治の性愛の形」(本項)は、主に、そこから紹介します。
【共同婚(乱婚)という習俗】
女性は特定の男性に独占されていませんでした。男性も、どの女性とでもOKでした。
天下の五奇祭のうち、洛北大原社の雑魚寝、近江筑摩社の鍋被り祭り、越中鵜坂社の尻たたき祭り、常陸鹿島神宮の常陸帯の神事には共同婚の名残があります。
なお、浮世草子の「好色貝合」(1687)には、大原の雑魚寝は「正月14日に行われる一夜限りの集団夜這い」であり、「暗闇の中、他人の妻や娘と遠慮なく情交できたらしい」とあります(「性なる江戸の秘め談義」)。
「売笑三千年史」に戻ります。豊後国西犀川村で5月10、11日に行われていた「犀川夜市の石枕」では、多数の男女が社前の石枕で寝て、「目を覆う亡状が演じられた」と書かれています。また、伊予国田渡村の恒例祭(2月)では、白手拭いを被っている婦人とは自由に交会でき、田渡の保々市と言われました。しかし、明治30年頃、警察の取り締まりが厳重になり跡を絶ったそうです。
フリーセックスの行事だけではありません。日常生活でも、明治の中頃までは、若者組は、「処女と寡婦は若者の共有だ」と信じていました。
【定期婚と試験婚の習俗】
共同婚の後には、略奪婚が起こり、続いて、定期婚と試験婚が起こりました。ここでも、生涯一人の異性だけという貞操観念はありません。
定期婚は、期間を定めた結婚です。越後と信濃の国境にある関川村では、毎年、パートナー選びの会がありました。また、越後では、「盆籤」といって、女性を選ぶくじ引き行事がありました。気に入らない女性を引いた場合は、酒一升で取り替えてもらったといいますから、失礼な話です。試験婚は、三、四日、長いと一二年、下婢の名で妻女を迎えます。売笑との境がはっきりしないと指摘しています。
【売買婚と一夫多妻】
近世までの2500年間は、女子は、第一に父兄、第二に良人(おっと)に属した資本・財産であって、人としての待遇を受けていなかった、と著者はいいます。「結納」の起源が嫁を買う売買婚だというのです。昭和の東京(旧豊多摩郡、今の渋谷区や杉並区など)で、女の市が行われており、著者は見たそうです。ここでは、お手伝いさんを雇い入れるのですが、売買婚と関係があったと推測されています。
山村(栃木県那須町荒金沢付近、11月、記事とは関係ありません)
村での性愛の例
「桧枝岐民俗誌」(今野圓輔_1951)には、檜枝岐の習俗とルールが具体的に書かれています。本項は、「桧枝岐民俗誌」をベースに記載します。
檜枝岐は福島県南西端の山村ですが、檜枝岐川は新潟に注ぎ、新潟との繋がりが強い村です。著者の調査当時(1944年)は、119世帯、681人の村でした。今の人口も600人ぐらいです。この論文の中に、「恋愛」という項があります。
【少年の通過儀礼】
かつて、男子は17歳になると、伊勢参りに連れて行かれ、三日市の遊郭で性的に一人前の大人になったそうです。なお、老人を含め一行全員が公娼を買ったそうですよ。伊勢参りで一人前にという風習は、近江商人にもありました(参考:伊勢古市参宮街道資料館)。
【男女の出会いと結婚】
親は、娘達の初潮が過ぎると寝室を用意しました。「ヨバイ」(呼ぶ)の段取りですね。男が訪ねると先客がいることもありました。生々しい。
未婚の青年は、仕事を終えて夜になると、遊びに出かけました。風呂を貰いに行くのは大切な活動で、村に数件ある風呂のある家で、男女がともに過ごしました。娘達は、積雪期(11月から3月)には、若夫婦だけの家や未亡人の家など気さくな家に夜業(よなべ)仕事に出かけ、そこに青年達も集まりました。「遊び宿」と呼ばれ、二、三軒あったそうです。自由でしたね。
雪のない時期は、男達は、山小屋や畑小屋で仕事をしていて、春秋の彼岸の前後に、二、三日、里の家に戻るだけでした。女達は村に居たので、積雪期の恋愛は結婚に向けての重要なものでした。
ところで、女性は、美人、金持ち、善良、働き者(健康)の順で重視されたそうです。でも、結婚相手は財産が第一の条件でした。が、年上の女性と結婚することはなかったそうです。
さて、女性は17から20歳ぐらいで結婚しました。13歳ぐらいから恋人を持ち、半分以上は恋人同士の結婚でした。大勢の男を相手する女性もいたそうです。確かに、貞操観念や純愛ということとは距離がありますね。”ぽつんと一軒家”で、どのようにして夫と出会ったかと訊ねられた高齢のご婦人たちは、「昔は夜這いがあったからあ、男は山を越えてやってきた」と笑いながら話していました。
【若者組による監視】
檜枝岐にも、若い男達の集団があります。若者組です。15歳になると集団に加わり、村の公共事業や祭を主催します。頭は35歳です。彼らが村民の性愛活動を監視しました。
若者達は、妻帯者の不倫行為を監視し、妻帯者は自分の妻を訪ねる若者達を監視します。恋愛事件が起きると、当事者が呼び出され、人民裁判にかけられます。判決は、過去の判例に準拠して公正に下されたそうです。ということは、人妻を狙う者は常にいたということですね。
夜中に他人の家に無断で上がるのですから、大胆な楽しみ方です。「ヨバイ」は、日本中どこでもありましたが、電灯の普及と共になくなっていったという話もあります。
江戸・江戸時代の性愛
【「性なる江戸の秘め談義」(氏家幹人_2017)】
好事家の蘊蓄本で、75のトピックスが書かれています。
農家:奉公人の女と近所の娘、農家の息子二人が、臼挽きをしながら、猥雑な世間話をし、深夜、息子達は女の寝所に夜這いしたという微笑ましいトピックが載っています(小平市史料集、1829)。
お見合い:幕臣は見合いができず、婚礼の席で綿帽子を取ったときに初めて相手の顔がわかったとのことです。一方、庶民は水茶屋や芝居小屋で相手を見定めます(会話をするのではありません)。特別なのは、真宗の門徒で、親鸞の命日の11月28日に開かれる「お講」が見合いの機会にもなっていたようで、「29日から仲人やたら来たる」とのことです。宗教行事の講には、そんな役割もあったのですね。
不義密通: 18世紀半ばの「公事方御定書」で不義を犯した男女は死罪と定められましたが、不義は後を絶たちません。刑罰ではなく、示談で処理するようになり、間男からの七両二分(大坂では五両)で、亭主は手を打ったそうです。七両二分が示談費用だという話はよく聞きます。時代にもよりますが、72万円ぐらいです。江戸末期になると、殺傷事件を除いて、奉行所は対応しなくなりました。
番外トピック:「甲子夜話続編」には、元平戸藩主の未亡人・本清院様が、吉原の最高級店・松楼(まつばや)で、染の助という売れっ子の花魁と遊び興じたと書かれています。1780年頃です。若い女性との華やかな会話やソフトなふれあいを楽しむ知的熟女の“女遊び”というものがあったそうで、セレブの遊びですね。都会ならではです。
既に紹介した「江戸生活事典」「嬉遊笑覧(Part2)」に書かれているのは、ビジネスとしての性愛ですが、そうではないものも少し紹介されています。江戸には遊ぶ場所や出会いの場所がたくさんありました。特に、縁日。
江戸後期の1800年頃になると夜でも明るく、女性が出かけることが増えたそうです。縁日は夜の賑わいになり、「取持ち観音、色薬師」と言われ始めたのもその頃。縁日で男女が出会うということですねえ。お寺に“色観音”、”取持ち地蔵”、”間男観音”などの別名が付くほど霊験があったとか。様々な縁日があり、大正時代のピークには一年のうち340日も縁日が開かれたそうです。(http://nagoyakochan.cafe.coocan.jp/gogen/ennichi.html)
出会いの機会が多い都会は、性愛の楽しみでも昔からパラダイスでした。一方、農山村部でも、出会いの機会、性愛を楽しむ機会を作って、厳しくはないルールのもとで楽しんでいました。
いずれも、貞操という倫理観がある訳ではなく、自由に楽しんでいたようです。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1304179?tocOpened=1
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